私の父は、村では、働らき者でしかも律気者として通っていたらしい。
反面、家貧しくして孝子出ずという先人の言葉をそっくり信じて、
男女合わせて十人の子供の中から、一人ぐらいは何かをしでかすものが
出るだろうと考える程、呑気なところもあったらしい。
私は、物ごころがつきはじめた頃、なぜかそのような宿命を負わされて、
嬉野尋常小学校の分校・不動小学校に入学した。
雨の日は破れ番傘をさし、雪の日は毛布を縫い合わせたもの
(今でいうオーバーコート)を頭からかぶって、片道一里余りの
畦道を毎日通った。
長ずるに従って、農事作業の手伝いは勿論のこと、幼い弟や
妹の面倒を見ることが一日のうちの大半を占めるようになった。
朝早くから牛や鶏の餌の世話、草取り、肥料運びなど、
農作業には一日として休みはない。ひと仕事終えてから
学校に通うのである。
『私の履歴書 中村鉄六』より 原文のまま転載

中村鉄六の父
中村染吉
管理人おっかさんの
ひいおじいさんです
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